まったく

朝のうちに洗濯して、干して、それを午後にはとりこむことのできる生活をほんとうに幸せとは思う。そう思う。仕事してたら朝から夜まで干しっぱなし。下手したら前の晩から次の晩まで干しっぱなし。しかも洗濯はせいぜい週2回だった。

でも、自分が仕事を辞めたことに対して、「やっぱり女の人は家にいるべきだから、それでよかった」と言われた途端にものすごく悔しくなる。言われた相手が義父ゆえ、私はあえてそういう場での反論はしないけど。でもそのあと、「いつか専業主夫になって。そしたらその間は私が働くから」と夫に向かって訳の分からない八つ当たりを。

反論したって仕方ない。でも、せめて自分が生きてて心地よい世界へ変えていきたい。願わくはそれが他の人にとっても少しでも生きやすい世界であれば……。

(専業)主婦って響きが嫌やわ、なんか他の言い方ないんかなあと考えていて、そうか、「ニート」という言葉はきっと、その対象者が甘んじて、あるいは好んで受け入れたからこそ、こんなに一気に浸透したんやな、と思った。

ジョギングしていたら自転車に乗ってた小学生の男の子に話しかけられ、最後の質問は「ねえ、何年生?」って。意表をつかれて頭が真っ白になりつつ、「んー、もう卒業したよー」と答えながら、小学生も階級社会なのよね、と思った次第。

ぷくぷく

junkochikatani2005-05-25


三浦半島で先週末に見かけた猫。このぷくぷく猫を名づけて「どらえもん」。

先日、ドラえもんのドラはどら息子の「ドラ」と知って驚いた。ドラ焼きのドラだと思ってたら、ドラ焼きのほうがあとづけの意味だったなんて……。

自分が信じている人がいて、その人が「良い」というから「良い」と思うのは間違っているのか、いないのかということを考えた。その人を信じるのが、間違いなく自分の力・責任だったらそれでいいのか、って。でも、盲目的な(他にいい言葉はないのか)追従はきっと容易に独裁時代の形成なんかにつながってしまうだろうこの論理。

映画『ネバーランド』を見て泣いた。母を亡くして心の迷う男の子に、どうしたらいいって聞くその男の子に、"just by believing" っていう言葉、信じれば世界は開けるんだよ、っていうメッセージ、素敵だと思ったけど、ぼろぼろ泣いたけど、信じるって大変なことよと(もちろん映画は信じることの大変さもちゃんと織り込んではいたけど)夜になってまたむくむくあまのじゃくな心が立ち上がる。

夕立のなか

対外的にきちんと挨拶を済ませたのが4月末。でも結局5月も引継ぎの仕事を会社や家で……。でも、先週の金曜日に送別会をしてもらって、残ってた仕事も今日で終わった! 終わった!

という気持ちの一方で家にいるのがときどき怖くなって、大根おろしのうえにのせたじゃこの黒い目がやたらと目について。でも須賀敦子を読んでいて、ノマド、それから、裸な、という形容詞、そんな言葉に救われる。

銀座の松屋でも買えるのに、でもわざわざメゾンカイザー本店まで自転車で出掛けた。往復3時間以上。途中、「明るいビル」の看板にダサいなあと思ったら糸井重里の事務所ビルだった。びっくりしたけど、でも「明るいビル」ってやっぱり変なのという感想は変わらず。

2年前に結婚したときのこと。私を知る友達のお母さんからの感想が「なんだかんだいって生活力のある子ね」というもので、結婚するのをただ幸せと思っていた私はその感想に「わあ、なんて大人の感想」って思ったことを思い出した。ただし実際のところは、30代後半になって貯金ゼロ、の人がお相手だったのだけれど。

そんなふうに少ない過去を思い出したり、ひょこひょこ一日を過ごしたり、真夏でもないのに毎日夕方にこんなに突然の雨が降るのはだからなのか。
幸せのにじんでしまうヒトになりたくない、平和はにじむべきと思う。

屈折

拳銃を奪って逃走した二人組みのことを、昨日の朝日新聞朝刊はブラジル国籍、ブラジル人のふたりだと書いていた。
ニュースで、愛知のブラジル人と聞いたときに「日系人かな」と思っていた。新聞で名前を見て、やっぱりそうだったんやなあって思った。

今日の朝日新聞夕刊の文化面に、カナダ人の環境運動家の記事が載っていた。日系カナダ人だと書いてあった。

同じ記者が書いたわけではないだろう。ひとつの記事に「日系」と書かれてあって、もうひとつには「日系」がついてなかったことに、特に意図はないのかもしれない。

でも、どちらの記事も「日系」はキーワードにはなりえたと思う。
逃走につかった車の所有者名は昨年ブラジルに帰国した人のもので、現在誰が乗っているかがすぐにはわからなかったこと。所有者の手続き変更をすることなく、日本に残った人たちが乗り継いでいる、車検は切れ、自動車税支払いの封書は誰にも届くことなく宛て先不明で戻っているはず。日系ブラジル人社会のなかで、起きている話だ。
日系カナダ人の環境家の話は、来日講演に合わせたインタビュー、自然と「日本」もインタビューのテーマになっていた。

それでも前者は「逃走している外国人二人組み」あるいは「ブラジル人」として話され、後者はカナダ人ではなくわざわざ「日系カナダ人」と呼ぶ。

そういう日本を暗いと思う。
でも、拳銃を奪った彼らも悪いけど、自分たちだってふたりでパトロールしてたのに盗られた警察もあかんやろと思う、外国人びいきの私も屈折しているなとは思う。

『国境の南、太陽の西』

国境の南、太陽の西

村上春樹の本のなかで、一番好きなのは『国境の南、太陽の西』のはずだと思っていた。でも、どんなに好きな小説でもしばらくたったらすっかり内容を忘れてしまうたちゆえ、ほんとうにこの本が一番好きなのかどうか、確信がなかった(我ながら変な話だけれども)。

文庫本が大阪の実家にあるはずだったけどどうしても見つからず、新しく買って大阪から東京へ戻る新幹線のなかで読む。

そして、たぶんこれが一番好きということで間違いなかったんだなあって思う。
そしてずっとこの本だと思い続けていた理由のひとつは、きっとこの題名。国境の南や太陽の西に、そういう場所に無条件に憧れる。雨が降っている場所と降っていない場所の切れ目は見てみたいと思うけれど、もっと遠くのぼんやりとした場所に心惹かれる。心が飛ばされる。

雨は海の上に降るらしいけれど、砂漠にあるものはなんだろう。

順番

大阪。帰るたび、少しずつ壊れ方が大きくなっている母はかわいいのだけれどやっぱり寂しい。

小学生のころから思ってた、家族の要は自分だと。傲慢だけど。
母がいて私がいるその順番はもちろんその順番なんだけど、でもこの順番はひっくり返ることもしょっちゅう。

こういうことだけは書くことでちょっとほっとする、そんな自分がこわい。実家が、ちょっとずつちょっとずつ寂しい場所になっている。こんな静けさ、じいっと息をひそめてしまう、こんな静けさ。