国民

「国民」「国民」「国民」とひとくくりに言われることに徹底的に反抗を感じながら、でも「国民」であることから逃れようはないんよねとうんざりしながらその覚悟をもつ。


自民大勝の結果がでた今、自省が必要なのは選挙に負けた政党だけではなく、自分のことを「知的エリート」(メディア、個人とも)やと思っている人たちやと思う。

「国民」がいちばん嫌いなのは、小泉首相でもなく自民党でもなく官僚でもなく民主党でもなく公務員でもなく、「知的エリート」やと思う。
偉そうなこといって、結局なにもせえへん人。本書いてるとか、意見してるとか、それは何かをしてるとは言わへんよ。
だってあなたが一番思ってるはず、「国民はアホ、なにもわかってない」と。


このままじゃ経済格差はどんどん広がるばかりなんよ。このままじゃ日本は危ない。

そう思って、そのことを伝えたいならばそのことを話さないといけない。
じゃあどうすればいいか、どうなればいいか、そのモデルを示して「国民」(大勢の意味かな)をまとめないと。マジョリティになるよう道をつけないと。
モデルを示せなんて言い方は、郵政法案に反対なら代替案を出せと民主党につっかかっていた小泉首相とおんなじやけど。

それができひんなら、大多数をまきこむことができないって認識するなら、「知的エリート」はそれぞれはほんとにちっぽけでその声なんてほんとに誰にも届いていないような小さなものであることを直視して、で、そのうえで誰に向けて話すかを、誰の心をつかみたいのか。

少数派であることのメリットなんてほとんどないと思うけどね。人と違うことに嬉しいって思うのは変な人。でも私は変な人が好き。
辻元清美みたいな言い草?



そして私はここまで書いて、書きっぱなしで、まだしばらくボーっと総選挙関連のテレビをみて、そして布団かぶって寝る。

2年前にアメリカに帰国した、自分と年齢がふたつみっつしか違わないアメリカ人の友人夫妻から、生まれた男の子の写真と新築庭付きの家の写真が送られてきた。すごく嬉しい。嬉しいんよ。
でも、いらいらしてしまう。イライライライラしてしまう。どうしよう。