「楽しみたい」

昨日は午後いっぱい、ブレーンストーミングをするなどという目的でホテルの部屋に会社の全員が缶詰にされた。たった20人ばかりなのに、オフィスが狭くてオフィス内には全員がつどえる会議室もないのが悲しい。

全員がそれぞれパワーポイントの資料までつくって発表したのだけど、そもそもの目的があまりにもナンセンスだと思い、自分が話す段になって、「この会社はみんなバラバラなわけですが......」と話しはじめた。こころのなかで、「わーい、裸の王様のこどもだ」(この言葉の使い方は森達也さんによる。婦人公論の先月号?の記事を参照)と思いながら。だって普段互いがテンでばらばらに仕事していて、一体感なんて皆無で、なのにそのうえ個々人が一方的に発表したってなんにもならないもん。お互いに話す機会こそが必要なのに。

それでもその後、それなりには話が進み19:00から新年会で焼肉に行くという。15秒ほど心が揺れたけど、やっぱり断って、ジャーナリストコースへダッシュする。

昨日はジャーナリズムサイト作成について。
私はサイトをつくりたい、参加したい、と思うけど、それぞれの思いを話しながら、違和感を覚えることがあった。「面白いものをつくらないとひとは集まらないと思う」というもの。具体的には掲示板やブログにひとを呼ぶ、ということを意識してだと思うのだけど、「面白い」っていうことばに引っ掛かってしまった。

千葉すずアトランタオリンピックのとき、(メダルがほしいとか、精一杯がんばりたいという答えを期待した記者たちの)「どんなオリンピックにしたいですか」という質問に、一切「楽しみたい」って答え続けて、世間はそれが受け入れられなくて、「楽しみたい」ってどういうことだ、なんでがんばるって言わないんだという空気が流れたときのことを思い出していた。
あのとき、私も「楽しみたい」という意味はわからなかったけど、でもわかりたいと思っていた。世間ではなく、千葉すずを信じていたから。

ジャーナリズムサイトの「面白さ」ってなんだろうと思う。

「面白さ」はそこに万人に向けてあるものじゃなくて、読む側が勝手に拾うもの? 強制されるものではなく。共有すべきものでもなく。

でも、わからないのだけど一方ではなんとなく直感的に、千葉すずのときのように、その「面白さ」っていうのを解釈したいなあとは思う。わかったほうがいいんじゃないか、というべきか。


個人的にはいろんな価値観のいろんなセクションなりプロジェクトなり記事なりが混在するものがいいなって思う。みんなの意見をすり合わせて、落としどころを見つけて、で、そこに向かって方向性を打ち出す、といった手順は結局それぞれがちょっとずつ「これは私の思いとは違う」ということを感じて疲弊するんじゃないかと思うし、そうなっては元も子もない。「会社」のための仕事ではないのだから、そういう疲弊の仕方はしたくない。

もうひとつ、「ひとびとを導く」というような感覚を私は持ちたくないから。だからあるひとつの方向性のもとで「オレについてこい」みたいなのは嫌で、あるいは最初は方向性はないのだけど参加者たちが決めていくだろう、というのも嫌。

「みんなバラバラで、お互いを知らないような会社でいいの?」と言った同じ口で、「バラバラなものになりたい」と言うのもおかしなものだけど。

でも、元々が雑誌-magazine- 好きな性分で、雑誌の特集じゃなくて真ん中から後半の連載ものが好きで、そのあたりが今回も自分の考えの出発点だったかもしれない。
web で何ができるかという可能性を考えて、ではなく。むむむ。