動く、動かす、

「副委員長」や「書記」の立場が好きだった。小学校や中学校や高校のときのことだけど。
リーダーの資質がないのは自分が一番よく知っている。そして今は、トップに立ちたいとか、人を使って動かしたいとか、そういう気持ちもなくなってしまった。できない、と思っているからかもしれない。

大衆になりたくない、とずっと思ってきた。流行に迎合したくないという気持ちや、たとえばヒトラーの演説を聞いて、「わー」と拍手してしまうことがないようにしたいと。
そして私は、人を動かしたいとも思わない。

お正月に、主人の家族(広島)や自分の家族(大阪)と過ごして、親戚もあまり集まらないくらいのほんとうに身近な家族間だけで何日も過ごして、しかも広島の家はとても田舎で、畑からとれた白菜や野菜を刻んで、牡蠣やりんごは知り合いからもらったもので。そういう食事。
ああこれでいいんだなあと思う。家族がいて、ごはんを食べて、話して寝て起きてまたごはんの時間で。時間はきっちりと過ぎていく。

なのに私は普段、東京で何をしようとしているのだろう。
大阪で大学を卒業して、「東京でも行くか」と思って部屋借りて仕事見つけて。うろうろしているうちに結婚して、今度は仕事のことでもまた悩んでる。

かに座だからか知らないけれど、たぶんすごく保守的な一面が自分にはあるのだと思う。たとえば家族っていう単位を、ともすれば過剰なくらい意識して。自分の年齢や性のこともあると思う。いまは自分のこどもをもつ可能性をよく考えるから。でも、実際に自分がこどもを産める体かどうかも知らない。あげくだんなさんには「まだ今はこどもはいらない」と言われ。まわりには子をもたない選択をした人もいれば、どうしていないかを聞けないままの方もいる。そして、はっきりと、欲しかったけれどだめだったという人も。独身のひとも。


そうやって家族のことを考え、それが一番の基盤じゃないかと思う一方で、生まれ故郷でも縁があったわけでもない東京にポイっとやってきた。

で、家族間で生きていく以上に何をしたいのかということを。


文章を書くのが好きで、面白いねって言われたり、詩や読書感想文でほめられたり。そんなのがはじまりだった。
中学のとき、「教師批判」みたいなことを灰谷健次郎について書いた文章と合わせて小冊子を作って文化祭のときに机に置いておいた。「誰も読んでくれないだろう」「読んでも怒られるのが関の山だろう」と思っていたら、「私はファンだからね」という声をともだちや知らない大人のひとからかけてもらって、たぶん嬉しかった(でもこの出来事を、私は忘れてた。昨日、思い出した)。

人の気持ちを動かせたらいいな、というのは今も思っている気がする。でも、誰かを扇動したり、社会を動かしたい、変えたいとまで思っているかというと、そうは思わない。でもそういう気持ちが100%ないわけではないんじゃないか、とも思う。

そんな中途半端な私が「社会のここがおかしいよね」とつぶやいたところで……。

大勢に染まりたくないという者が、結局逆に誰かの心を動かせるものだろうか。

文章を書くのが好きだというのが一番の出発点で、その次が「やっぱり誰かに読んでもらいたい」というもので、それから「なんだかな」「変なの」っていつもいつも思っているあまのじゃくな心。

こういう資質では、そもそもが軟弱かもしれない。
でもいつか、書きっぱなしではなく、読んでくれるひとのいる書き手になりたい。

自分の文章でお金をもらいたい、という気持ちも、あえて今は持とうと思う。それはメインじゃないけれど、でも。古典的だけど、ひとは霞食っては生きていけないから。