鎮魂

神戸ルミナリエがはじまった。阪神淡路大震災の犠牲者への鎮魂と、復興の願いを込めてはじまったもの。「鎮魂と復興へ願いをこめて」は、もはや神戸ルミナリエの枕詞だ。通りにびっしりと色とりどりの光が灯って、光の回廊という言葉はとてもぴったりである。毎年、「どうやら今年で終わりらしい」という噂があるなかで(寄付をよびかける箱をルミナリエからの帰り道に目にすることも)、今年が10回目。

大学が神戸だったこともあり、ルミナリエの、特に「鎮魂」への思いに思い入れがある。あの道に立ち、真っ暗な空の下で光るひとつひとつの光をみていると、心のなかで目をつぶってお祈りをする。

だから、99年の暮れに東京ミレナリオがはじまると聞いたときは(そのとき私はまだ大阪に住んでいた)、東京ってほんまに嫌やわと思った。ルミナリエにこめられた思いを踏みにじらんといて、きれいさを見世物にせんといて、と。東京に住む今も、人ごみ嫌いだけがその理由ではなく、私はまだミレナリオに足を運んだことがない。

そんな私の心が狭量なのかもしれない。
「神戸、神戸」と言い続けて、もしかしたら知らないうちに誰かに気持ちの押し付けをしてしまっているかもしれない。


でも、たとえば京都の大文字の送り火で、お盆に迎えた先祖の魂をまた見送るように、夜に灯るものに「魂」を見ること。歴史のなかで受け継いできたそんな感覚が、イタリア生まれの光の作品、神戸ルミナリエでも、鎮魂としてぴったりと当てはまった。だからこそ、ルミナリエは神戸の冬の風物詩になりつつあるのだと思う。

今日も私は神戸、そして関西びいきのようだ。